06/09/2026
[春雨物語]
『樊噲』
本文
睦月過ぎて、二月の三日といふより、ここ立ちて、「能登の浦めぐりいと寒しと聞く。さし出の磯の千鳥の声、八千代と鳴くを聞きて、この中の国の御山の地獄見ん」とて、登るのぼる。いと高し。雪まだ深くて、「地獄はいづこぞ」と、二人の男らに問ふ。「恐ろしさに、つひに見ず」といふ。足にまかせ、谷、峰越えて、めぐるめぐる。あやしき事なし。「いつはりとは聞しかど」とて、岩の雪払ひて休む間に、影のやうなる者、二三人わが前に来て、うらめしげなり。「餓鬼ならめ。物食はせん」とて、腰につけたるを、みなうち払ひて与ふ。集まり食らひて、うれしげなる中に、笙取り出でて高音吹きたれば、おどろきてかき消ちたり。「立山禅定のかひあり」とて、山を下る。
神通川の舟橋、雪解にも渡りあり。珍しくて、川の中央に立ちて、立山より、見やるに、大きなる木の根こじにて、流れくだるが、舟橋にうち寄せたり。「よき杖得たり」とて、やすく取り上げて、橋の上突き鳴らし越ゆ。
「これより大沼の浮島見ん」とて、行く手に、村雲に行き逢ひたり。「いかに」「いかに」と、かたみに言ふ。「船の住まひをさぐられて、疵つきたれど、命は遁れたり」。「この北国に冬ごもりして、山中に湯あみし、手足ゆるびたれば、また出で立ちしなり。おのれらは、麓に宿とりて待て」とて、村雲と二人登りゆく。至れば、大きなる沢に、水鳥鳴き遊ぶ中を、浮かれて島二つ漂ひたり。また、この岸よりもただ今と見るを、樊噲引きとどめて、「いざ、乗れ。浮いて遊ばん」といふ。村雲飛び乗るを、力にまかせて突き出したり。「いかにするぞ」といへど、答へず。笙取り出でて、喜春楽高く吹き遊ぶうち、「いかに、いかに」といへど、答へず、うち笑ひて立ち行く。
あしたの朝戸出に、村雲行き逢ひたり。「おのれ、恩知らずめ。命得させ、金百両与へしには、『親とも頼みつる』といひしを忘れ、我を水の上に離ちたる、許すまじきを、今は思ふところあれば」とて、連れ立ち行く。
訳
一月も過ぎ、二月も三日になった頃、ここから発って、「能登の浦巡りは滅法寒いと聞く。さし出の磯の千鳥の声が八千代と鳴くのを聴いて、越中国の地獄谷を見よう」と宣言してひたすら山を登り続けた。えらく高い山である。雪はまだ深く、「地獄谷は一体何処にあるんだ」と二人の男に訊いた。「恐ろしくて、未だ見たことがありません」との答だった。健脚を頼りに、幾つもの谷や峰を越え、あちらこちらへと巡り歩く。だが一向にそれらしい怪異にも出くわさない。「出鱈目な話だとは思っていたがな」と、岩に積もった雪を払って休息していると、さながら影のような者が二三人、ふと前に現れ、恨めしげな目つきでこちらを見ている。「さては餓鬼だな。何か喰わせてやろう」と、腰に結いつけてあった食い物を一つ残らず与える。わらわらと集まってきてむさぼり喰いながら嬉しそうにしている最中に、笙を取り出して高らかに吹き鳴らすと、魂消てとたんに姿を消してしまった。それでようやく「立山禅定のご利益があったわ」と、山を降りたのであった。
神通川の舟橋は、雪解けの時期にも舟を連ねている。これは珍しいと、川の中央に仁王立ちし、立山からずっと見渡していると、大木が根ごと流れ下っているのが橋に打ち寄せられていた。「ちょうどいい杖を手に入れたぞ」と軽々と取り上げ、橋の上を突き鳴らしながら越えてゆく。
「これから大沼の浮島を見に行こう」と云って歩いていると、道すがらなんと村雲にばったり出会した。「どうしたんだ」「どういうことだ」とお互いに云い合う。「船に住んでいたのを探し当てられ、怪我はしたものの、なんとか命だけは助かったよ」。「この北国で冬籠りして、山中で温泉に浸かり、充分手足の疲れが取れたので、再び旅に出たというわけだ。お前達は、麓に宿を取って待っておれ」と命じて村雲と二人でまたしても山を登り続ける。頂上近くに至ると、大きな沢があり、水鳥達が鳴き戯れている中に、浮いた島が二つ漂っている。こちら岸に近づくのを見計らって樊噲は島をぐいと引き止め、「さあ、乗れ。浮いて遊ぼう」と云った。村雲が島に乗り移るやいなや、力任せに島を向こうに突き出した。「何をするんだ」と怒っても答えずに笙を取り出し、喜春楽を高らかに吹き鳴らしている、そんな中も「なんなんだこれは、どうするつもりだ」と叫ぶが依然として答えることなく、にやりと笑って立ち去って行った。
翌朝早く出発しようとしていたところに、村雲と再会した。「この野郎、恩知らずめ。命を助け、金を百両渡してやった時には、『親と思って信頼します』とぬかしたのも忘れ、よくも俺を水の上にほったらかしにしたな。到底許しがたいが、今は思うところがあるゆえ」と、また連れ立って歩いてゆく。